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悲しみでいっぱいだ。
どういうわけか、涙が止まらない。
シャワーを浴びながら、座り込んで、泣き叫ぶ。
泣き叫ばずにはいられなかった。
悔しいのか?悲しいのか?いたたまれないのか?いろんな感情がごちゃ混ぜになって分からない。
なぜだろう、なぜ私は泣いているのだろう。
でも、確かなのは、私は悲しみの滝に打たれているということだ。悲しみの中にいるということだ。
私は優しさで溢れた人でありたい。
誰かのために出来ることは、細かいことでも全部やりたい。
相手のことを考え、陰で支えられる人間でありたい。
でも、私の気持ちは、届いていないように感じる。私の善意が、慈悲が、ふっとすり抜けて、消えていく。
ボールを投げても、見逃される。
悲しみでいっぱいだ。
人は無条件に与えてくれる人に対しては、慣れが生じてしまうものだ。だから、失って初めて気づくなんてことが起こることもある。悲劇的だ。
私はただ、生きとし生ける全ての罪なき人たちが、ただ幸せに生きて欲しい。ただそれだけなのだ。
でも私の想いはきっと、私の善意はきっと、私の気持ちはきっと、相手にとっては都合のよいものになることがしばしばだ。
悲しい。悲しい。涙が止まらない。
くじけるな。立ちあがれ。きっと私はこのような体験に、何百、何千とぶち当たるだろう。
立ち上がれ。悲しくても、泣き辞め。泣き続けるな。
私は心がきれいなだけだ。傷ついてしまうのは、きっと私には避けられない。でも、私のやっていることは間違いではない。
そして、都合のいい人として解釈されているというのはただの妄論に過ぎない。過度の妄想だ。
相手もいつか、いつの日か、気づく時が来るだろう。それまで、長い目で、待っていようじゃないか。
私はえらいよ、本当にえらい。その行動は素晴らしいし、何も間違っちゃいない。十分よくやっている。
悲しくて涙が出てしまうのは、それだけあなたが綺麗で繊細で、麗しい心を持っているからだ。私の心はよどんじゃいない証拠だ。
そしておそらく、少なからず献身的になりすぎている部分もあるからかもしれない。自分を犠牲にする部分がある場合、そこまでして人に何かをしたが、相手に届かなかったのなら、金魚すくいのポイのごとく脆い心はぺりっと穴が開くのもうなずける。自分自身を守れていない証拠かもしれない。今私に足りないことは、自分のことを自分で守れることだ。
私の生きる原動力とは何か。
それは、大切な人が抱える苦しみによって生じる、私の深い哀しみだ。
この哀しみが私にとっては大きな大きな原動力で、力を振り絞る起爆剤になる。大切な人が涙を流すところを見たくないからだ。苦しんでいる姿を、泣いている姿を見ると、自分の心が苦しくて苦しくて、どうしようもないんだ。
私の使命は、大切な人が、涙を流す生き方ではなく、喜びで満ちた生き方に導くことだ。
大切な人が苦しんでいる姿を見たくないから、ただそれだけだ。だから、私が喜びに変えるんだ。
これが私の本当の願望なのだ。
私が心から感じていることは、これだ。
大切な人が、私の周りにいる大切な人が、涙でおぼれないように、その人のためになることを考えて、行動するのだ。
そして、大切な人だけでなく、全ての人達が、涙でいっぱいの生き方ではなく、笑顔が溢れ、愛に満ちた生き方に出来るように、私が出来ることをただやるんだ。これが私の生き方なのだ。
ありがとう、悲しみよ。
この道は苦しいことが多いかもしれない。
慈悲の愛が、全員に届くことはないだろう。それでも負けず、全員に与え続けろ。そして自分の心を守り続けろ。
私の心自体は、それで満たされるのだから。
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初めて私が、自分のことを自分で守る言葉をかけられたのが昨日だった。
この感覚を忘れずに、今後も生きていきたい。