自己愛としての自己嫌悪
自己嫌悪ってのは、自己愛の現れの一種なのではないか。
自己嫌悪と自己愛は真逆な関係だと思っていた。
でもそれは違うような気がした。自己嫌悪は、自己愛の遂行途中の副産物なのかもしれない。
自分の何が嫌いなのかを考えてみた。
すぐ自分の殻に閉じこもり、本能的に自分を守ろうとするところ
すぐ人の意見に流されるくらいには自分の意見がないところ
人の感情に振り回され過ぎるところ
など、まあきりがないっちゃないんだが。
なんでこういう自分が嫌いなのか。
なぜこういう自分も自分だと受け入れられないのか。
それは、自分が本来ありたいと思っている自分のありたい姿が、あまりにも現状からかけ離れているからなのではないかと思った。その理想像は、そこに常に存在して見える太陽のように、手を伸ばせば届きそうって思えるけど、実際はそんなんじゃ到底届きもしない。そんな距離感を感じる。
本来であれば、そういう自分のありたい姿っていうのは希望になり、人を駆り立てる衝動や欲求としていい方向に働く。けど、これがあまりにもかけ離れているから、希望は絶望にシフトしていく。
じゃあなんで自分はこんな自分の理想像を思い描いているのか。
単なる理想主義ではないと思っている。支離滅裂な理想論を並べているわけではない。じゃあなんでか。
今の自分が、この社会で生きるには不利に働くと感じているからだ。
この人間社会の中で、生きづらさを感じさせるものたちだからだ。
生き物は当然、苦しみの中にはいたくない。出来ることなら、喜びを感じたい。まあこれも、苦しみがあるから喜びの本質的な善さを感じられるわけなんだけれども。
とにかく、今私が嫌っている自分の部分が、この社会を生きる中でかなり邪魔だと思っているからだ。邪魔だし自分を苦しめるモンスターだと思っているからだ。
殻にこもるのが嫌い ← 本当は殻にすぐこもらずに、オープンでいたい
すぐ流される自分が嫌い ← 自分の意見や軸があって、それを貫く意志を持ちたい
感情に翻弄される自分が嫌い ← 人の感情に流されず振り回されず、冷静でいたい
こういう願望があるのは、自分が今持っている自分の性質について、社会との相性がすこぶる悪いってのを肌で感じているからだ。
経験論寄りの話にはなってるけど。人間は社会という文脈の中で幸せを感じられる生き物だと仮定するならば、自分はその幸せまでの道に高い壁をたくさん見つけてしまっているのだ。
まあそれだけ自分が苦しみを感じているってことだ。この自分の性質がゆえに、と今のところ理解しているのだ。
で、よくよく考えてみると、こうやって自分が自分の性質がゆえに苦しみを感じていて、その性質を嫌っていると。じゃあなんで嫌っているかというと、その苦しみを解放したい気持ちがあり、でもそれが今の自分の性質によって邪魔されているから、ということになる。
これはつまり、本質的には、自分は幸せの方向に向かおうとしている、ということだ。
苦しみから解放されるということも、一種の幸せなのだ。
だって、ずっと縄で縛られていた状態から解放された瞬間、誰だって幸福感を感じるのではなかろうか。自由になった!っていう。
まあつまりは、幸せに向かおうという生命の力そのものが、そのプロセスの途中で自己嫌悪を生んでいるという、逆説的な現象が起きているのだ。
もしこれが自然摂理なんだとしたら、じゃあその自分が嫌いと思っている部分を好きになろう、とするのは、自然に反することになる。
嫌い、などの負の感情もまた、人を突き動かす言動力なのだ。
これも生物に宿っている生き伸びるための機能なのだ。負の感情があるから、自分を脅かす脅威から逃げることが出来たり、むしろ明るい感情よりも強力な起爆剤になったりもする。
ただ、ここで注意しないといけないのは、自分が嫌っている自分の一部分が、自分の生来の性質である場合だ。これを嫌うというのは、もうただの自爆だ。
こんな言葉がある。
変えられるものを変える勇気を。
変えられないものを受け入れる冷静さを。
そしてこれらを判別する知恵を。
そう、変えられないものを変えようと努力することは、これこそ自然摂理に反する。
自分が繊細な心を持って生まれたとして、この心を強靭にしよう!と頑張るのは時間の無駄である。無理なものは無理だからだ。でもこの場合、その繊細な心(感性)自体は強靭にすることはできないけど、傷ついた自分をいかにすぐ癒すことが出来るか、ということを考える事は可能だ。
つまり、本質的に変えられないものを、本質から変えようとすることは、考えるべきではない。
逆に、もし自分が変えられる余地のある部分を嫌っているのなら、それを好きになろうとすることは自然に反する。さっき話した通り、この苦しみというのは、自分が幸せに向かう途中で、邪魔者を見つけている状態だ。その邪魔者がなかなか消えないから、希望への道にそびえたつ壁がなかなか壊れない。苦しい。
だから、その苦しみの原因となっている、自分の嫌いな部分ってのは、好きになるべきではないのだ。だって変えられるものだから。好きになったら本末転倒だ。
ただし、好きになるのではなく受け入れる、というのは出来ると思う。というか、これをしないとこの壁は破壊出来ない気がしている。これをすることで、現状把握できるというか、感情を一旦放棄して、冷静に事実を見つめられる気がするからだ。
一旦受け入れる、というステップを踏めば、
じゃあそれを変えるためにはどうしたらいいのか、を冷静に考える事が出来るのではないかと思う。
なんというか、理性的に現状理解をする、という感じだ。現実を受け入れなければ、話はそこから先に進まないから。誰だってぐだぐだと駄々をこねて時間を無駄にしたくはない。
もちろん自分が嫌いと思っている自分の側面は、単純なものもあれば、いろんな因子が絡みまくっているものもある。
後者を考えるのは、少し時間がかかる。
でもそれでも、時間をかけて、じっくりと考え、有効だと思うアクションを実行してみる。この繰り返しなんじゃないかと思う。
それに、そもそも論ではあるが、そこは変えるべきではない、というのもあるだろう。
本来であればそれは個性であり、その人の才能でもあるのに、それを変えようとするのは悲しいことだ。
変えるべきかどうかってのは、じゃあ何を基準に考えればいいのか?
私は、その自分が今変えたいと思っている性質が、何か外部へ有益なものを与えているなら、変えなくてもいいと思う。それをさらに磨く、という意味での変革はもちろんいいと思うが。
自分という生き物は、自分の持つ力を、能力を、どれだけ社会や周りの人に役立てることが出来るか、を考えることが大切だと思う。
自分が最大限力を発揮するには、を考えるべきなのだ。
だから、自分を毛嫌いし、その嫌いという感情に飲み込まれ、どうせ自分には出来ない、とかいう風に考えてしまうのは、理性的ではない。
感情という動物的本能に凌駕されているだけで、動物的な生き方だ。人間的な生き方とは言えない。
変えられないことと変えられることを区別する知恵もだが、
変えるべきところと変えるべきでないところを区別する知恵もまた、持ちたいものである。