こころの内省日記

内省を通じて、どのように”こころ”が変わりゆくかを綴った日記です。

残酷

人にはその人だけの生い立ちがある。
その大きくて長い物語には、たくさんの追憶が流れる。


私は今までもらった手紙を見返していた。
私は手紙が大好きだ。なぜなら、その優しい記憶は、形あるものとして永遠に私のそばにいてくれるからだ。人間の脳による記憶は限界がある。いつか、思い出せなくなってしまう。でも、文字として刻まれたこの暖かい記憶は、私の心をいつも潤してくれるから。


私が今まで生きてきた中でもらった手紙を、読み返していた。

大学時代の部活の先輩からの言葉を見返していた時、ふと悲しい風が私の中を吹き抜けた。この頃、いろんなことがあった。部活動では、チームメンバーの熱い感情がぶつかり合うこともしばしばあった。それだけ熱い想いでみんな取り組んでいたのだ。だが、その深さが人間関係を難しくすることも少なくなかった。私はそれに悩み苦しみもがいた。そして、その根底には、いつも人間不信という感覚が付きまとっていた。

なぜ私はこんなにも人を信じることができないの?
本当はみんなを信じたいのに。信じていると思いたいのに。どこか私の無意識が、人を信じてはいけない、人は信じるものじゃない、って忠告してくる感覚があった。どうして?信じたいのに心の底から信じれていない。そうしたいのに、そうできない。その差にいつも私は苦しんだ。そしてそんな自分を責めた。


人は幼少期、思春期の経験によって、世界の捉え方を学習する。私は、本当に間違った学習をしたんだろう。その発端は、中学時代だった。
敏感な気質が仇となったようにずっと感じていた。荒れ果てたクラスでいじめや陰口表口が飛び交う世界。その残酷さを、私はダイレクトに受け取った。生まれつき敏感だった私は、両親の保護のもとで育った。両親が守ってくれていた私の心は、両親がいなければ、剥き出しであるようなものだった。自分で守る力をつけることが出来ていなかったのかもしれない。バリアも何もない状態だった私の心には、人間が生きるこの世界は、危険なところだ、という風に映し出された。
ここは危険だ。世界は危険で、脅威で溢れているんだ。人は傷つけてくるものだ。
私はその環境にいられなくなって、学校に行かなくなった。
そして自分を信じるなんてことも、ありのままの自分を受け入れることも、一度もなかった。

私はここで間違った学習をしてしまった。そしてそれを、修正する間もなく、大人になってしまった。今まで私はたくさんの優しさ、温かさに触れてきたばずなのに。その当時負った心の傷は、未熟で幼い私の心には深く深く骨の髄まで刻まれたのかもしれない。その傷が痛むから、またその傷を負いたくないから、傷つきたくないから、私は人の弱い部分を見ると、すぐさま心を閉ざした。

そんなことをずっと繰り返して大人になった。私はいまだに、心の傷が開きそうになった瞬間、人に対して心を閉ざしているのかもしれない。たとえその人がどれだけ善良で優しい人であっても。人間は知らず知らずのうちに、悪気もなく、人を傷つけてしまうものだから。人に心をずっと開けていなかったのかもしれない。

私があの時もっとありのままの自分を受け入れられていたら。自分を信じられていたら。優しさをくれた人達のことを、信じる勇気を持てていたら。
そう過去を嘆くことしかできなかった。


大学時代の先輩からいただいた、温かい言葉を、当時の私はどれだけちゃんと受け止められていたのだろう。私は、人の優しさすら、受け止められていなかったのかのしれない。信じるのが怖くて。傷つくのが怖くて。私はなんて人間なんだろう。
残酷な事実だ。幼少期に形成していった考え方によって、私は今までどれだけの優しい言葉をかわしてきたのだろうか。そして、そんな自分を責めるしか出来ない。

私の考え方がだめだったからだ。過去を清算せずに、大人になってしまったからだ。そして自尊心もないまま、自己受容もしないまま、大人になってしまったからだ。だから私は、人の優しさをも信じられず、受け止められないような冷酷な人間になってしまっていたのかと思うと、悔しくて苦しくてたまらない。視界が揺らぐ。床に這いつくばる。呼吸が荒くなる。悲しみと悔しさと苦しみの感情が剥き出しになる。慟哭する。


私はきっと、やり直せる。今はそう信じている。今が苦しい時かもしれない。でも、私は変われるんだ。過去を清算し、自分を信じること。この世界は、この世界に生きる人々は、優しさを兼ね備えた生き物なのだと。そう信じれると、思いたい。

 

それと同時に、私は確信した。もうこれ以上、このような残酷な事実に苦しみ心をえぐられる人を輩出してはいけない。不登校問題は今や社会問題だ。特にこの日本では、自尊心が育ちにくい。耐えることが美徳とされる風習がまだ残っているからだ。
私はこれからを生きる子どもたちが、苦しみを抱えたまま大人になってほしくない。完成された苦しい考え方を抱えて苦しみながら生きる子どもたちをこれ以上増やしたくない。自分の心によって自分を殺すなんてことを、してほしくない。

私は、その使命を果たすために、生まれてきたのかもしれない。
この日本を、これからを生きる人たちを、正しい道に導くことが、私の使命であり、ミッションであるのかもしれない。自分が誤った道に進んでしまったのは、このことに気づくためだったのかもしれない。